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August 31, 2005

三条会 『ひかりごけ』

 長野市の東南、JR長野駅から鉄道を乗り継ぎ山間を抜けること数十分、そこに松代町はあります。19世紀に幕末の雄、佐久間象山の提唱から建設・開校された松代藩文武学校内の槍術所で、三条会が代表作である『ひかりごけ』を上演しました。まつしろ現代美術フェスティバルの一環である「まつしろ現代演劇プロジェクト」の招待公演ということで、会場となった文武学校内の諸施設にはさまざまのアート作品がならんでおり、歴史ある町を舞台に現代文化の集う、興味深い催しでした。とはいえ、公演は遥か去る7月17日。三条会は、新作『ニセS高原から』の初日をすでにあけてしまいました。度重なる度を過ぎた遅筆にもはや言い訳も尽き、以下レビューです。

◎微笑の向うにみえるもの

 三条会はこれまで本当にさまざまの場所で公演を重ね、そのたびに場との闘いを制し、そこでしか生きられない白眉の作品をつくってきたが、今回『ひかりごけ』を上演した松代藩文武学校内槍術所も、「演劇」のために建てられた空間ではない。異質なものとの出会いを肯定し、その距離が隔たっていればいるほどに燃えるような三条会の演劇。劇団のスタンダードとも云うべき『ひかりごけ』を、場との化学変化によってさらなる深み(高み)へと到達させた。そこにみえたのは、場や俳優を介して示された虚構が、原作から現代までの時間的距離や、物語生成の過程そのままに舞台を駆け抜ける、新しいドラマツルギーの姿である。

 聊か恣意的な臭みが鼻につくのをおそれずに、原作前半部の紀行文を援用してみたい。『ひかりごけ』において人肉食が主題化される要因である「ペキン岬の惨劇」。実際に起きたという出来事を、村の年若いS青年が「羅臼村郷土史」の一項を割き、「難破船長人肉食事件」として記録した。その末尾に記されたS青年の、「船長が西川を、食べる目的で殺した」という「恐る べき想像」――当時の人びとにも「あまり歓迎されそうにない題材」――に、武田泰淳が「文学的表現」を与えるため「読む戯曲」という形式を選ぶ。作家が机上に「上演不可能」と断じた戯曲『ひかりごけ』を、今度は演出家(読者)である関美能留が上演すべく演劇化する。大まかに云えば、『ひかりごけ』の世界は、直前に示された思想を受け、変化させながら、積極的な虚構を配置して軸をずらし、改めてその場の全体を考えることで成立してきた。そして、事件→記録→文学化→演劇化の過程を支えるのは、各々が人肉食というモチーフを見据える現実的な問題意識と、己の実生活や感情との距離感覚を手放さない、真摯な姿勢である。

 事件の発生地は羅臼村ではなかったし、船長は羅臼の出身でもなかった。にもかかわらず、「ムラ」という極めて内閉がちの共同体社会で、このような事件が郷土史に収められたのは、編纂にあたったS青年にとって「人肉喰い」とは実感困難な、意識の外側に在るものであり、伝統的村制度からも世代的な距離のある立位置が、事件に対する客観の視座となり得たからに他ならない。武田泰淳は、マッカウシ洞窟で「ひかりごけ」をみた回想的紀行文を枕に、事件が記録化される過程を描写した後、大岡昇平『野火』や野上弥生子『海神丸』を引きながら文学者としての分析を試みる。そして、曰く「苦肉の策」たる「読む戯曲」との二部構造にすることで、小説でも戯曲でもない(あるいは「でもある」)、実験的とも云える文学の創造をめざした。一々の濾過装置を伴って、前項に記された事象を相対化しながら積みあげられて生れた『ひかりごけ』が関美能留の演出によって舞台化されるとき、これはドラマツルギーに関わる問題提起を大いに孕んでいる。たとえそれが作者によって、挑戦とさえ受け取れる「上演不可能」の刻印が押されようとも、戯曲が演劇と関わるものであり、演劇が舞台ありきの表現形式であるならば、俳優の身体というフィルターを通してはじめて、「読む戯曲」である『ひかりごけ』の先にある、総体としての『ひかりごけ』が発見されるんじゃないか。そして読者(演出者)の向こうに当然予測されるであろう「観客」の姿をも浮かび上がらせるのだ。

 多く過去の戯曲を舞台化する場合、どうも言葉や観念ばかりが世界の中心に居座り、俳優がそれを動かすことができぬ非力を、物語の類型に当て嵌めた社会状況としての付加価値を以て整理してしまうきらいがあるように思う。過去にある出来事が起こっていたとして、わたしたちがいる進行形の現在との距離は遠ざかってゆくばかりである。そもそも、「ペキン岬の惨劇」と名づけられる以前、第五清神丸が羅臼北方五十五キロの海上で難破し、船長が救助されるまでの間に何が起こったのか。その時間は、もはや船長の体験の内にしかなく、しかしたった一人の生存者である船長の「陳述」や「告白」の真否を誰も証明なぞできないし、共感を持って語ることができよう。現代を生きる三条会の人びとが、異質と感じるものとの出会いから徐々に事の本質へと迫るとき、人を食べた、あるいは人に食べられたことのある者にしか裁かれたくはないという船長の不可解な言葉や、法廷にいる人びと同様に観客にも見えぬ光の輪を、同じく現代に生きるわたしたちは認識する。特異な『ひかりごけ』の世界を現前させるための必要不可欠の条件が、読者(演出者)を経由したところに立つことのできる、戯曲の言葉・世界と拮抗し得る俳優の存在なのだった。

 俳優、ということに思いをめぐらすに、予てからどうもあの「微笑」が気にかかっている。微笑みは、精神、肉体の緊張を緩める作用もあるに違いないけれど、プロットに即した心理表現としての笑いはとまれ、様式的な所作の内に笑顔をみせることはなかったのではないか。恰も自分たちが舞台に息を溶かしてゆくための構えであるかのように、外部世界と相対する決意の顕れであるかのように、俳優たちは微笑みを浮かべ客席の方角を凝とみつめている。大川潤子、榊原毅は口元をキッと結び、静かに口角を持ちあげる。語られる言葉は、さまざまな役柄を演じ分けながら、静と動の間を自在に往還する。中心的役割を担うことの多い二人の、凛とし且つ不敵な微笑をはじめ、橋口久男、中村岳人、岡野暢、舟川晶子らのそれぞれ個性あふるる微笑の裏には、余程、精神の豊饒が秘されているだろう。そこから発せられる身体衝動の緩急は、劇世界そのものまでも変容させていくのである。

 教室にどこかしら夢のように現れる転校生(大川潤子)は、学校という秩序だった空間に対する異物としての役割を担うだろう。教師(舟川晶子)が生徒たちの名前(それぞれ俳優の本名である)を読みあげ、出席をとる。生徒は美しい転校生と握手を交わし、彼女の存在にほとんど心奪われながら、返事をする。授業のテキストとして配られた『ひかりごけ』を、時に教師の「お手本」的な朗読も挿入されながら読んでいく。そこではまず、「読む」という外的な行為が、まず約束事として客席にも諒解させられる。ニュートラルな状態から劇世界に入っていくための前提が仕掛けられているのである。はじめは、テキストの外在性を示すように、授業なのだからと詮方なく「読まされる」音読に過ぎなかったのが、読み進むうちに「朗読劇」然とスタイルは整い、あれよとばかりに新しい世界観が構築されていく。三条会版『ひかりごけ』にみえるのは、人間の身体が言葉を媒介にして劇世界に住みこんでいく、その変異の道すじである。そうした過程の中で俳優の身体が発する活力の振り幅は限りなく大きい。一等早く机に立上がり、五助――彼は戯曲中でも最初に命を落とし、舞台からも居なくなる――として言葉を語りだすのは岡野暢である。次に八蔵へと変身する中村岳人の緊張状態への移行は目に見えて鮮やかだ。隣席の榊原毅とふざけ合いながらも教師に促されて『ひかりごけ』の言葉を口にし、五助=岡野と対話するうちに、しだい笑顔が消えていく。見開かれたその眼は正面を凝視し、机に上りはじめる。と同時に、教室の内(=舞台)を回っていた科白が外側へと放出される。客席に向かって語られていく。三条会の美少年担当(?)、橋口久男が西川化を果たし、やがて、検事(大川潤子)と船長(榊原毅)による法廷の場に向かうと、類希なるダイアローグと音楽にも導かれ、劇温度はひとつの沸点に到達する。

 『ひかりごけ』における「出席をとる」という趣向は、奇を衒った飛び道具ではない。たとえば『若草物語』(2005年2月、ホール椿)にみられた独特の「名乗り」も一種の変奏だった。他者に名前を呼ばせ、自分の存在を明らかにすべく返事をする。あるいは本名を名乗らせることで、虚構の在り処に揺さぶりをかけながら、現代演劇において失われた記名性を再考していく。三条会という集団の関係のなかから、夫々自立した個が立ち上がっていく過程をもみることができる。その人がいる。俳優たるその人がいる。俳優たるその人が舞台に立つ。俳優たるその人が舞台に立ちそこでまた別の役を生きる……。連綿とつづく身体意識の環があって、舞台に俳優が生きるに抗えないであろう、あらゆる粉飾のうちにたしかなことは、「その人である」という一事に他ならない。一人一役に縛られないスタイルも、自意識の所在を絶えず問うものである。俳優には余程のものが求められているに違いないが、それを体現してしまう三条会は、やはり見事である。

 松代藩文武学校という150年の歴史を内包する場所が、『ひかりごけ』に新たな霊力を加味していたことは、今公演の眼目の一つである。かつて槍術(武術)指南の場として在り、その形をとどめる木造建築に対して三条会は、「学校」という、云わば近代的な「文」の学舎を趣向として織りあげた。机と椅子しかない舞台。視界には、俳優と、場所が景色としてあるばかりである。恰好の場所を得、雰囲気だけでない空間との共生を可能にしたのは、俳優の力強さだった。閉めきられた場内、汗を流す俳優同様、観ているわたしたちも汗ばんでくる。しかしそれがまったく不快でない。渦巻く熱気は夏日のためばかりではなかった。生身で体感する演劇の波動に、何度背筋をゾクッと冷気が走り、肌が粟立ったことか。湿った木の匂いとともに、今なお皮膚が記憶している。光と影を自在に駆使し、肉体と空間の関係性を巧みに視覚化する照明と、際だってすぐれた空間構築や戯曲解釈はもちろんながら、俳優――というより、人間中心の舞台設計が三条会の根幹なのだと、あらためて気づかされる。俳優の力量はすでに喧伝されてきたことだけれど、より一層、全体の活力が増したように思う。以前に増して、俳優たちの身体が一回り大きく見えたのは気のせいだったろうか。まず微笑、あらゆる過程的なものを経由しながら、なお微笑みつづける先に、力強くも軽やかに遊ぶ三条会のドラマの真髄がある。そして微笑をはさんだこちら側、観客は、否応なしに劇世界の内へと導かれていく。観念肥大を拒み、具体的な描写を避けたところに、唯一残された生身の人間が放射しているもの。それを視覚化する作業によって融和せられる、舞台と客席、ひいては俳優と観客の境界。それに伴う意識の交流は、まさに体感する演劇として、わたしたちを魅了して止まない。(後藤隆基/2005.7.17/松代藩文武学校槍術所)

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August 30, 2005

文学座 『戯曲 赤い月』

23日から、東京・新宿にある紀伊國屋ホールで、文学座が『赤い月』を上演している(来月2日まで)。映画やテレビ・ラジオのドラマにもなった、なかにし礼の小説『赤い月』を、主役の波子を演じる平淑恵が企画し、なかにし自らが今回新たに書き下ろした。初日を観劇したけれども、場面の描写が微妙に不調和で、展開も駆け足、主人公波子の情念が足りない、というのが率直な印象だった。

母であり、女であり、妻ではなかった波子。

「大切なのは自分自身の命を生きつづけるための愛よ。愛あってこその命、命あってこその母なのよ。母として生きるとはそういうことなのよ」

なかにし礼の自伝的小説を舞台化した『赤い月』。なかにし自らが脚本化した。「愛あってこその命」を貫き通した主人公の波子は、なかにしの母がモデルになっている。

昭和20年8月9日。ソ連軍による満州への侵攻が始まった。当地で栄華を極めていた森田酒造は離散を余儀なくされる。森田波子と2人の子は、避難列車で死屍累々の道中を命からがら逃げ落ちた。1946年10月末に引揚船で日本へ帰国するまでの生き地獄が活写される。

戦争とは、国家に裏切られるということなのだろう。国を信じて疑わなかった人々のなれの果ては凄まじく、胸に重くのしかかる。波子に裏切られ続けた夫のやるせなさとも重なって、観劇中は鉛を飲み込んだような心境に陥った。

欲求は満たされても欲望に終わりはない。夫が死の間際に裏切らないよう釘を刺したにもかかわらず、波子は次の愛を欲する。性を生へのエネルギーに変換する波子は情念にあふれていたかのようだった。極限状況における人間の生存本能をそこに視た。

その波子を演じたのは文学座の看板女優のひとり、平淑恵(たいら・よしえ)。正確さと安定感のある演技は記憶に残るけれども、舞台から距離があったせいか、情念の迫力、がもの足りず、もう少し強靱(きょうじん)さがほしかった。その一方で、母と常に対立する長女美咲を演じた尾崎愛の、等身大ではありながらも初々しい姿が今でも目に浮かぶ。

演出では、場面転換が数多く、設定と美術のすり合わせ-場面の描写-に苦渋の跡が窺えた。暗転に入る速度がすばやく、余韻を味わう暇(いとま)がないほど、展開が駆け足に感じられた。舞台右上に大きく現れる日章旗のような旗と、舞台中央に吊される映像用のスクリーンが重なる点も気になった。苦心作というのが全体の印象だ。

(敬称略) 【観劇日:23日(初日)、座席:N列3番】

山関英人 記者)


《公演情報》

◇文学座 『赤い月』
 ・作:なかにし礼/演出:鵜山仁
 ・紀伊國屋ホール(東京・新宿)
 ・上演時間:約3時間(途中に休憩15分)
 ・公演期間:2005年8月23日-9月2日
 (※)全国各地の公演情報
  

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August 26, 2005

しずくまち♭「卒塔婆小町 vol.2」

 「しずくまち♭」は「芝居者と音楽家の表現ユニット」と名乗るだけあって、音楽に、ここでは楽器の選定と使い方にこだわっているようです。今回の「卒塔婆小町」は、2001年に利賀村で初演以来、何度か取り組んできた演目だそうですが、昨年末から俳優は3人だけ、音楽もアコースティックな楽器だけというシンプルな新演出で再スタートしました。そのとき使われたピアニカとボンゴのほか、今回はアイリッシュハープに替えてピアノと三味線が生演奏されていました(8月21日、荻窪・クレモニア)。

 老婆の役を受け持つのは三味線でした。奥行きの深い三味線の響きは、若き日の恋物語を、陰影深く浮き彫りにするのに格好の器を提供しました。詩人役はピアノでした。もっぱら澄んだ、線の細い響きに終始しました。役柄に楽器を割り振るというオーソドックスな対応だったと思います。

 老婆役は、伊藤美紀、詩人役は演出も兼ねるナカヤマカズコでした。二人ともほぼ同じ背丈で、声もそれほど際だった違いがありません。楽器の配分よりも、お互いに分身と思える女性二人がほぼ50分余り、休みなく物語を話したり聞いたり、ひっきりなしに遣り取りする舞台から、一つのイメージが問わず語らず立ち上ってきます。それは老婆と詩人のダイアローグではない、老婆の胸中から発する物狂おしいモノローグではないか、物狂いが次々に自己増殖する幻影のドラマではないか、というかイメージでした。最小限の俳優で作る舞台に、それはふさわしい構えかもしれません。音楽の造形作用とイメージの自己増殖/自己開花を結びつけた珍しい舞台だったのではないでしょうか。

 「三島由紀夫はこの作品の中で、日本と西欧、二重の視点から『永遠』を描いているように思われます。今回はそのぶれを、そのままなぞってみようと考えました」-。プログラムにそう書かれていますが、ぼくの器では、そこまで上昇した観念を受け止めかねました。獅子丸の役割も音の響きも、明快な像を結んでいなかったような気がします。

 会場は東京・荻窪の音楽スタジオでした。30人ほどでいっぱいでしたが、「場所を問いません。体育館、会議室、レストランでも上演可能です」というだけあって、楽器さえあれば、生演奏付きでほとんどどこでも公演可能なスタイルです。「半音下がった視点から 物語を言葉として音として立ちのぼらせて行く。想いが液化する瞬間……感情の露点を私達は描きます」(Webサイト)というこのユニットの特色を、よく表した公演だったと思います。
(北嶋孝@ノースアイランド舎 8.28補筆)


[上演記録]
しずくまち♭「卒塔婆小町 vol.2
■場所:音楽専用空間クレモニア (東京都杉並区荻窪)
■日時 8月21日(日)
■作 三島由紀夫
■演出 ナカヤマカズコ 岡島仁美
■作曲 侘美秀俊
■出演 伊藤美紀 ナカヤマカズコ  岡島仁美
■演奏 ピアノ:侘美秀俊 ボンゴ:由田豪 三味線:和姿子
■衣装 まちことなおこ

Posted by KITAJIMA takashi : 09:33 PM | Comments (0) | Trackback

August 23, 2005

東京黙劇ユニットKANIKAMA 「collection vol.2」(続)

 「おはしょり稽古」のあめぇばさんが東京黙劇ユニットKANIKAMA 公演を「夏の空き地におじさんが二人」というタイトルで取り上げています。二人のマイムがチャップリンではなく、無声映画時代のディズニーを連想させるというポイントを押さえながら、日本的な「間」について次のように指摘しています。

このソロパフォーマンスも、特筆すべきは「間」だと思う。さぁ始まるぞ、決着つくぞ、ってところでカメラが応援団の風景を映す。鍵が無い無い無いって捜してるサラリーマンがふっと冷蔵庫開けて涼んでしまう。ついでに中のアイスかなんか食べてくつろいでしまう。ついでに言うと本田愛也の女役はどれもミニーマウスやベティーちゃんに似ていた。

なるほど。指摘が具体的で納得、でした。なるほど。

Posted by KITAJIMA takashi : 04:54 AM | Comments (0) | Trackback

August 21, 2005

東京黙劇ユニットKANIKAMA 「collection vol.2」

 パントマイムを中心に活動する小島屋万助さんと本多愛也さんの2人が作るユニットKANIKAMA。カニカマボコが名前の由来らしいのですが、ぼくがみた最終日18日のステージはどうしてどうして、鍛えの入った技だけでなく、緩急を効かせたソロマイムやボケとツッコミのコンビ芸に涙が出るほど笑ってしまいました。「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんが的を射たレビューを掲載しています。ちょっと長めになりますが、次のように報告しています。

黙劇ということで、作品としては基本的に演者2人のパントマイムで物語が進みます。 全部で5作品、それぞれにタイトルが付いておりまして、明確な状況設定がタイトルでなされます・・・トータルで1時間20分。一番初めの作品がペンキ塗りの作品だったのですが、この作品があんまり面白くなかった・・・(略)劇場の笑いもクスクスぐらいで、正直残り4作品が思いやられる作品だった。 けど、その残りの作品は一番初めの作品とはうって変わって、マイムの面白さを多方向から切り開いてみせてくれる作品群でした・・・どの作品も面白かったなぁ。 特に度肝を抜かれたのは、本多愛也さんが1人で演じられた「白球」・・・2本目の作品です。(略)大勢の人間をたった1人で演じ分けるという凄さもあるわけですけど、それ以上に感心したのは、作品構成の上手さです。

やっぱり、見抜いているのですね。

 小島屋万助さんの「出勤」(第3作)は忘れっぽいサラリーマンがカギの所在が分からなくなる動作を飽きもぜず繰り返すことから生まれるおかしさがモチーフでしょうか。4作目の「占い師」は通りかかったサラリーマンをなんだかんだと言いながら占いに引きずり込み、お金を巻き上げる一幕。「雨に唄えば」のバックミュージックも生きていたと思います。5番目の「対局」は将棋で張り合う2人の息の合った遣り取りです。

 なかでもやはり2作目の「白球」が抜群のおもしろさでした。本多さんが野球の形態模写をするパフォーマンスです。投手、捕手、打者、応援団、審判などの動きを次々と1人で表現します。その方法がまた多彩でした。

 まずある動作の終わりが次の動作の始まりにシームレスに接続しているのです。例えば、投手が捕手のサインをのぞき込み、首を何度か振った末に投げるのですが、その投球動作がそのまま打者のスイングに接続され、さらにキャッチャーの捕球動作へと滑らかに一連の動作として表現されます。さらに打者が走り、野手が捕球、送球。塁審が両手を上げてセーフの判定、と思ったら左右に伸ばした両手は前後左右に規則的に振り下ろされたり振り上げられたりして応援団のしゃちほこばった動きに変わり、太鼓叩きや校旗持ちのユーモラスな動きに移行するのです。ある時はゆっくりと、ある時はずんずん加速していきます。簡単なように見えて、練り上げた技が生かされているように思えました。夏の高校野球大会が開かれている最中でしたので、舞台がいっそう身近に感じられました。

 もうひとつ、連続技のほかに、動作の切り替えにアクセントを付けて反転したり、切り替えをあえて明示する方法も随所に見られました。連続と反転、それに緩急。これらは身体表現の基本なのでしょうが、そんか小難しいことはまるで感じさせないまま15分余りの熱演で観客を笑いの渦に巻き込んでしまいました。いやはや、参りました。

 演出の吉澤耕一さんは、遊機械◎全自動シアターの初期に構成・演出を担当していました。確かにその舞台はいろいろ工夫されて作られているのですが、見る側の緊張や警戒心を気付かないうちに解き放ち、いつのまにか劇の中にぼくらを溶け合わせる心憎い技を発揮していたと記憶しています。その手法は健在でした。2人の技だけでなく、演出の目配りが効いていたと思います。


追記(8.23)
 「おはしょり稽古」のあめぇばさんが東京黙劇ユニットKANIKAMA 公演を「夏の空き地におじさんが二人」というタイトルで取り上げています。二人のマイムがチャップリンではなく、無声映画時代のディズニーを連想させるというポイントを押さえながら、日本的な「間」について次のように指摘しています。

このソロパフォーマンスも、特筆すべきは「間」だと思う。さぁ始まるぞ、決着つくぞ、ってところでカメラが応援団の風景を映す。鍵が無い無い無いって捜してるサラリーマンがふっと冷蔵庫開けて涼んでしまう。ついでに中のアイスかなんか食べてくつろいでしまう。ついでに言うと本田愛也の女役はどれもミニーマウスやベティーちゃんに似ていた。

なるほど。指摘が具体的で納得でした。なるほど。


[上演記録]
東京黙劇ユニットKANIKAMA 「collection vol.2」
新宿タイニイアリス(8月16日-18日)

出演 小島屋万助(小島屋万助劇場)、本多愛也(ZOERUNAassociation
演出 吉澤耕一
照明 吉澤耕一
照明操作 青山崇文、根本諭
音響 木下真紀、吉岡英利子
音響操作 吉岡英利子
舞台監督 杉原晋作
宣伝美術 中山京子
宣伝写真 伊東和則
記録 藤本真利
制作 Kanikama制作部

Posted by KITAJIMA takashi : 10:27 PM | Comments (0) | Trackback

August 18, 2005

ミュージカル「きかんしゃトーマスとなかまたち」

 旧知の飯塚数人さんから、子供向けミュージカル「きかんしゃトーマスとなかまたち」について書いたとのメールを受け取りました。関連サイトもあちこち見て回りましたので、一緒に紹介します。

 「きかんしゃトーマス」シリーズと聞いて「懐かしい」という方もいるでしょう。「子供と一緒に絵本を読んでいる」「テレビで見ている」という子育て中のパパやママがいるかもしれません。子供向け番組や絵本の定番の一つなのでしょう。
 イギリスで2002年に上演された「THOMAS the TANK ENGINE ~きかんしゃトーマスとなかまたち~」は、27万人を動員したヒット・ミュージカル。海外初公演としてこの夏、東京・お台場で上演中です。本物さながらの「トーマス」、「パーシー」などのおなじみの機関車がステージ上を駆け回り、TVシリーズで親しまれている俳優たちの日本語吹き替え版で歌と物語が進行するそうです。

 驚くのがその上演期間と回数です。7月16日から始まり8月31日まで1日2回、計47日間94公演です。大人4000円、子供3000円ですから、家族で平均12000円の入場料と計算し、1公演の入場者数をざっと200人とすると、入場料収入だけで軽く2億円をオーバーします。入場者が300人、400人平均だと…。追加公演もあるので、数字はドンドン膨らんでいきます。

 とまあ、興行的な関心に傾いてしまいましたが、飯塚さんのレビュー(「闘いうどんを啜れ」)であらすじは少ししか書かれていません。鮮明な写真をたくさん載せている「iBox」サイトのlovecellさんの助けを借りると、「このミュージカルでは、テレビ版と同様に友達思いのトーマスの行動に焦点が当てられており、そこで起こるいろいろな出来事がストーリーの中心だ。任された支線が取り上げられそうになっても、友達を大事にするトーマスの思いやりに胸が打たれた。観終わった後、あたたかい気持ちになれるミュージカル」だそうです。

 飯塚さんは相当の機関車マニアだったらしい。「舞台はいちめん汽車が走りまわるための溝がはりめぐらされていて、よくみると、そこにはちゃんと枕木やレールや砂利が描きこんである。奥は車庫になっていて、トーマスたちはそのなかですこしだけ顔をのぞかせて、出番を待っている。場内は、あこがれのトーマスをまえに、感極まって泣き叫び、走りまわる子供(ほとんど幼児)が群れている」と描写、「俺も、鉄道マニアだった少年時代を思いだし、いまにも失禁しそう」という個所を読んで思わず頬が緩んでしまいました。

 「子供にとって、乗り物とは、人を異空間へ導くためものというより、それじたいが異空間というべき、祝祭的、演劇的存在だった」との指摘にうなずく人は多いはずです。「しかし人はやがてみな成長し、電車での通学通勤はあたりまえとなり、乗り物の持つ神秘性は失われて、日日ただ満員の苦痛を味わうのみの道具となる」。なるほど、なるほど。その後の描写にも機関車への愛情がうかがえます。

出演者につづいて、出演車が登場。動力はなにかわからんが、人が乗れる大きさの本格的な機関車で、ほんとうに線路の上を走るのだ。舞台の車庫のふんいきは、梅小路の機関区みたいだ。ポッポと煙を吐きながら、歌にあわせてコトコト走るかわいい汽車は、むかし西武園―ユネスコ村を走っていたおとぎ列車を思い起こさせる。(略)乗り物の持つ演劇性それじたいが、舞台の上に息づいている。

さらにディケンズが抱いていた鉄道に対する「特別な恐怖心」と近代の「疎外」にも触れ、最後に「いくつかの挿話が重なって、おはなしは進行し、最後には象の親子も登場し、俺も子供も大喜び。まさに乗り物への夢を、そして演劇への夢を、とりもどさせてくれる時間だった」と締めくくります。子供の喜びと同時に、飯塚さんご自身にもたまらないひとときだったようです。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:37 PM | Comments (2) | Trackback

August 17, 2005

クロムモリブデン「ボーグを脱げ!」

 このところ評価の高い関西の劇団「クロムモリブデン」が「ボーグを脱げ」の東京公演を中野・劇場MOMO で開きました。相変わらず精力的にレビューをアップしている「しのぶの演劇レビュー」サイトはもちろん見逃していません。ボーグ(防具)と攻め具(責め具?)とジャンケンを使って、クールでスピード感にあふれた舞台を展開したようです。

 「ナンセンスで錯綜した世界に独特のダークな空気が漂います。笑いがかなりコアでマニアック。ハマる人はハマるリズムがあります」と劇団の特徴を上げた後、今回の公演は「テーマはボーグ(防具)。(略)次から次にシーンからシーンへと移って行く短編集のスタイル。ただ、登場人物が被ることもあるのでチェーンストーリー的な楽しみもあります」「ロリコン、児童虐待、性犯罪者、家庭内暴力、SM(ご主人様と奴隷)などのかなりハードなモチーフを、時事ネタも含めて皮肉っぽく、だけどあくまでもポップに軽妙に織り交ぜていきます」「きちんと細かいところまで作り上げられた世界」「音楽がめちゃくちゃクール」「何もかも全部ひくるめてクロムモリブデンのイケナイ世界だった、ということでも私は満足」と述べています。

 しのぶさんと負けず劣らず芝居を見続けている「休むに似たり。」サイトのかわひ_さんは「「かぶって叩いてジャンケンポン」から自由に発想する舞台は、はっきりいってかなりワケわからないのですが、グルーヴ感がいっぱいで、楽しい」と評価します。

 「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんは「一見ストーリーなんて無きもののような舞台ですが、意外に社会的なメッセージが織り込まれているのがクロムの上手さ・・・そしてそういうのを恩着せがましく主張しないのもまたクロムの上手さか?」と述べ、「下手に難解ではなく、下手に整っていなくて、下手に感動できる訳でもない・・・ちょうどイイ具合に面白くて、イイ具合に意味分からない。エッセンスの割り振り方が上手い」とまとめています。
 大阪公演は9月9日-13日、HEP HALLで。


[上演記録]
クロムモリブデン「ボーグを脱げ!」
 東京公演 劇場MOMO(8月10日-14日)
 大阪公演 HEP HALL(9月9日-13日)

■作・演出
 青木秀樹

■出演
 森下亮
 金沢涼恵
 板倉チヒロ
 重実百合
 信国輝彦
 遠山浩司
 浅田百合子(エビス堂大交響楽団)
 板橋薔薇之介(ニットキャップシアター)
 倉田大輔(国民デパリ)

■スタッフ
音響効果 笠木健司
照明 Ingrid Smith
美術 ステファニー(劇光族)
舞台監督 塚本修
演出助手 大沢秋生(NEUTRAL)
宣伝美術 Indigoworks
宣伝写真 シカタコウキ
衣装 赤穂美咲
制作 床田光世 野崎恵 金澤裕 パリジャン

Posted by KITAJIMA takashi : 12:03 PM | Comments (0)

August 16, 2005

チェルフィッチュ「目的地」

 チェルフィッチュの「目的地」ワークインプログレスの模様は先にお伝えしましたが、本公演が8月6日、びわこホールで開かれました。「夏のフェスティバル2005」の参加作品。このフェスティバルは「 二年に一度、最先端の身体表現をご紹介する」目的を掲げています。

 今回は「話法」に関する分析や解説が目につきました。「わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)」サイトのqueequegさんは「話法が果てしなく自由自在になっていってる」と指摘しています。特に「猫になっちゃったりとか妻が浮気してると思い込んでる夫の妄想の中の妻が浮気相手を切る場面を繰り広げちゃったりとか、まあよく考えたらなんでそんなことになってんのか全然わかんねえよ!笑とか思いはする。のだけど、実際に舞台を見ているあいだにおいては(略)『またひとつ新しい空間が開かれた』っていう驚きが喚起させられるばかりで、だからやっぱそれはすごい」と書き留めています。

 「コンテンポラリーダンス目撃帖」のcannon26さんは「個人的には、この『目的地』は、演劇でもなければダンスでもなく、「話芸」としての面白さに一番惹かれた」と述べ、「結論を言ってしまいますと、『漫談やん』と思った」と指摘します。

 「中西理の大阪日記」サイトは、チェルフィッチュの入り組んだ間接話法構造について次のように分析します。

通常の演劇(近代演劇)は登場する俳優の会話として提示される。ところが岡田のテキストは直接の会話ではなく、だれかが自分以外のことをだれかに説明するという伝聞のスタイルで提示される、語られる事実がそのまま会話として観客に示されるわけではなく、論理階梯がひとつ上のメタレベルから語られることにその特徴がある。もう少し分かりやすい言い方をすれば例えば小説には地の文と会話体の部分があり、会話劇では通常、そのうちの地の文の部分が排除されて、会話の部分だけが抜き取られてそれぞれの俳優によって演じられるわけだが、岡田のテキストではその地の文的な部分と会話体の部分が1人の俳優によって、一緒に演じられるという「語り物」の形態に近いところにその特徴がある。
 さらに言えば、単に地の文というだけではなくて、その話者として想定された一人称の「語り手」がひとりだけでなく、複数存在していて、それも実際の上演では1人の語り手に対して、1人の俳優が対応するという一対一の対応だけではなく、「語り手」と「俳優」の対応の形式が多対一、一対多と融通無碍に変化していく。

 さらにポストパフォーマンストークでクナウカの宮城聰が「チェルフィッチュの演劇をピカソの『アビニョンの娘』に例えて語り、その発言はきわめて啓発的であった」と触れていますが、詳細は不明です。「チェルフィッチュ日記」で岡田さんも宮城発言に触れていますが、中身を詳しく紹介していません。ちょっと興味がありますね。


追記
 ワークインプログレスについて、宮沢章夫さんが自分のブログ「富士日記2」(7月24日付け)で言及しています。チェルフィッチュは初体験だと断りながら、「超リアル」な日本語は、「きわめて計算された不自然な『せりふ』」で、「その言葉が持つ『特別な強度』を借りつつ、うまく計算されて書かれている」「『リアル』をもうひとひねりしたからだの動きも相俟って、きわめて精緻に造形された人物が出現しており、なるほどと思った」などと強い印象を受けたようです。

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August 15, 2005

和栗由紀夫+上杉貢代「神経の秤」

 和栗由紀夫+上杉貢代「神経の秤」公演が8月4日-5日の2日間、東京・麻布die pratze で開かれました。舞踏の世界で、土方巽の弟子(和栗)と大野一雄の弟子(上杉)が共演するのはきわめて珍しいそうですが、その世界に疎いのでともかく舞台に目を注ぐことにします。
 最初は和栗のソロ約20分。次が上杉のソロ約20分。最後が2人で共演というか、「歩み寄る」という象徴的なシーンを作ります。

 和栗のソロは、場所的移動を極端に押さえたパフォーマンス。中央に立つ、というか佇むというか、やや腰を落としたまま、頭、目、眉、鼻、頬、額から始まり、首、肩、腕、手首、手のひら、5×2の計10本の指それぞれが反ったり撓んだり歪んだりきしんだり、お腹も背中も足脚以下も同様に微細な動きが次から次へと伝播するように、目に見えるほど筋肉の緊張が伝わっていきます。目の玉も大きく見開かれたりあらぬ方向を向いたり、それぞれの器官が左右違った動きを見せたり。ほとんど動かない身体は、みる側を息苦しくさせるほど。白塗りと言うか、土色の肌に筋肉の張りつめた形が現れるのを固唾をのんでみていました。

 舞台の後ろは白い幕を左右でからげ、出入りできるようになっています。和栗のソロが終わるころ、右手の幕から上杉がうつぶせになるぐらい身体を這わせて待機、和栗の退場とともにククククッとステージ中央に登場します。黒紫のドレス姿で円を描くように走り回ったり、暗転で大ぶりの着物姿に早変わりしたり、キツネ(犬?)面を被って踊り、面だけ客席に向けて後ろ姿のままのパフォーマンスを見せたり、豊かな表情とステージをいっぱいに使った動きが対照的でした。

 最後のステージは30分あまり続いたでしょうか。「白鳥のめがね」サイトのyanoz さんは次のように述べています。

この公演は、ラストーシーン、上杉と和栗の二人がステージの両端からゆっくりと歩み寄っていく場面が全てだった。
すくなくとも私にとっては、上杉の、まったき感受的な場となったかのごときまなざしを差し向けながらの、一歩一歩がふるえる息吹であるような歩みと、和栗の、眼を馬のようにして、硬く引き締まった筋肉をじりじりと駆動させていく歩みとが、互いの気配を緊迫させながら空間を占めてゆく、この音楽抜きのひとときに立ち会えただけで、十分だった。この時間だけを一時間たっぷり味わう事ができたらどれだけ素晴らしかった事だろう。

 2人の共演をプロデュースした舞踊評論家の志賀信夫さん(デュカスの日記舞台批評)によると、次のような経緯があったそうです。

企画は元々、和栗由紀夫さんと上杉貢代さんの舞踏、特にソロ部分がとても好きだったので、一度一緒に踊ってもらいたい、ということがきっかけでした。
 お話をもちかけても、最初はなかなかウンといって頂けず、一晩3人で飲んでようやくっていう帰り際、「やっぱりやめようか」ってなったり。
 でも実際に動き出してからは、結構スムーズに行かれたようで、最初上杉さんも15分くらい顔を出すだけ、というところから次第に積極的になられて、最終的にはコラボレーションといえるにふさわしい舞台になったと思います。4回のリハーサルであそこまで舞台が作れるのは、やはりプロです。特に後半の2人が絡む場面は、美しく感動的でさえありました。

 志賀さんが司会を務めたポストパフォーマンストークで、この公演の枠組みは和栗提案に沿っていたことが分かりました。「土方舞踏は空間とフォルムの型はあるけれど、時間は踊り手に任されている。この機会に土方舞踏を丁寧に踊ってみたかった」という和栗さんに対し、上杉さんは最初戸惑ったようです。「習っていたクラシックバレエは型そのもの。それが堅苦しくて、型のない大野一雄に引かれた。しかし今回は型のない不安はあったけれど、無防備でいこうと決めてから入り込めた」と話していました。2人の間柄について和栗さんは「わけ登るふもとの道は違えども、同じ高嶺の月を見るかな」という歌を何度か引用しながら、「同世代で話の合う”戦友”」と表現していたのが印象に残っています。

 蛇足を承知で付け加えますと、「神経の秤」はアントナン・アルトーの作品から取られています。「アルフレッド・ジャリ劇場を創設し、身体演劇である『残酷劇』を提唱。現代演劇に絶大な影響を与える」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と言われています。音楽は「バルトークやリストが好き」(和栗)「いつかワグナーの『トリスタンとイゾルデ』や『タンホイザー』で踊ってみたかった」(上杉)と話していました。

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August 14, 2005

ゴキブリコンビナート「君のオリモノはレモンの匂い」(続)

 「ゴキブリコンビナート」の公演レビューが「そして、始まる・・。」で中断していた「デジログからあなろぐ」サイトで、すぐに後半が書き継ぎがれました。同サイトの吉俊さんは、ゴキコンが「ミュージカルという形式を借りて」「泥水と組み合わせると、そこには終始水がバシャバシャ跳ねることを必然とする舞台が生まれる」と述べ、舞台設営など「道具使いの上手さ」をぬかりなく指摘しています。

 その上で、ゴキコンの3KミュージカルにさらにもうひとつのK、「心地よさ」を付け加えたいと宣言します。そうこなくちゃ。

簡単に言うと、上記の3K(汚い・臭い・キツイ)がもしも本当に3Kだけであったら、きっと誰も見たいわけじゃないと思う・・・私も恐いもの見たさっていうのが最初はあったけど、見ている最中に感じたのは「高揚感」といった心の内側の感情、そして後半にはそういう高まりは、心地よさへと変容している。
汚い水が体に降り掛かる、役者がどんどん汚れていく、その役者が自分達の上を駆け回る、そういう汚い部分とか・・・役者が服を剥ぎ取られたり、丸太で頭を打たれたり、逆さ釣りにされたり・・・肉体を傷つけられている様を観る部分。 SMという構図もあるけど、どちらかというと自然から全く切り離されて清潔に安全に暮らしている都会で、普段刺激されない人間という動物の諸感覚を刺激してくれているのではないかと思う・・・それが心の高ぶりであったり、終幕後の心地よさに繋がる。
それってまさにスポーツと同じ構図でしょう?・・・ゴキコンはスポーツである!っていうのはこれまた言い過ぎかもしれないけど、大きく間違っている訳じゃない。

 ゴキコン=スポーツ説の誕生ですが、ぼくには見せ物、そのなかでもプロレスとある面でゴキコンが似通っているのではないかと思えます。米国のプロレスはショーアップされ、あっけらかんとした勧善懲悪物語で広い会場を沸かせます。しかも2m100キロ級の肉体が明るいリング上で激突します。対照的にゴキコンは、技はうまわけではなく、痩せこけた身体と不揃いな歌声ではありますが「心意気と情熱!」があり、独自の物語を内蔵しているはずです。そのあたりの比較検討ができるとおもしろいのでは…と思いつきを並べましたが、おしゃべりはこのへんにしましょう。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:07 PM | Comments (1) | Trackback

August 12, 2005

ゴキブリコンビナート「君のオリモノはレモンの匂い」

 タイニイアリスフェスティバル2005の幕開けは、昨年に続いてゴキブリコンビナート公演でした(8月11-14日)。キツイ・キタナイ・キケンの「3Kミュージカル」を自称する劇団は、最近会場を確保しにくくなったとのうわさが流れています。アリス劇場関係者が度量の広さを示した今公演「君のオリモノはレモンの匂い」はいかに-。

 「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんは「レインコートとタオルを片手に入場を待つ」「劇場の階段を降り始めるとともに漂い始める異臭、これがゴキコンか!ドキドキ」などと助走しながら、いよいよ本番の報告と思ったら、「そして、始まる・・。」と書いたまま、中断しています。(12日22時過ぎ)そのうち書き継がれるのでしょうか。

 その代わりというわけではないのですが、「おはしょり稽古」サイトのあめぇばさんが、舞台の模様をしっかり伝えてくれました。おおよそ、こんな感じのようです。

「3Kミュージカル」は正装した新郎新婦の歌声で始まった。
ハネムーンに国立公園に来た新婚夫婦は、原始人のような野蛮な男達に襲われて身ぐるみ剥がれる。
おかみに助けられて宿に逃げ帰り、ショックから立ち直った花嫁は気を取り直して初夜を始めようとする。
しかし花婿は筋金入りのロリコンだった。
観客席の頭上の丸太に猿のようによじ登って、役者は別の舞台へ移動する。宿に逃げ帰る時点で花嫁はウェディングドレスを剥がれてほぼ全裸。後半では下半分が無いスクール水着で逆さ吊りにされ、最後は男に陰部の匂いを嗅がれながら花婿の生首を抱いて歌う。なかなか切ない役回りである。
半分猿のような男たちは、集団就職で雇われた「木こり」だった。…

泥はねも何のその、放尿もいたぶりも「演出家の割り切った姿勢は大変清々しく感じられ」「レモンの芳香剤の匂いが充満する中で二時間たっぷり野次馬をやって、半ば酸欠状態で劇場を出た」そうです。

ハラハラドキドキ場外編の様子は、彼女のもうひとつのブログサイト「依怙地にあめぇば」に詳しく載っています。

タイニイアリスWebサイトにゴキブリコンビナートの作・演出のDr.エクアドルのインタビューが掲載されています。興味のある方はどうぞ。


追記(8.14)
 「ゴキブリコンビナート」の公演レビューが「そして、始まる・・。」で中断していた「デジログからあなろぐ」さいで、すぐに後半が書き継ぎがれました。同サイトの吉俊さんは、ゴキコンが「ミュージカルという形式を借りて」「泥水と組み合わせると、そこには終始水がバシャバシャ跳ねることを必然とする舞台が生まれる」と述べ、舞台設営など「道具使いの上手さ」をぬかりなく指摘しています。

 その上で、ゴキコンの3KミュージカルにさらにもうひとつのK、「心地よさ」を付け加えたいと宣言します。そうこなくちゃ。

簡単に言うと、上記の3K(汚い・臭い・キツイ)がもしも本当に3Kだけであったら、きっと誰も見たいわけじゃないと思う・・・私も恐いもの見たさっていうのが最初はあったけど、見ている最中に感じたのは「高揚感」といった心の内側の感情、そして後半にはそういう高まりは、心地よさへと変容している。 汚い水が体に降り掛かる、役者がどんどん汚れていく、その役者が自分達の上を駆け回る、そういう汚い部分とか・・・役者が服を剥ぎ取られたり、丸太で頭を打たれたり、逆さ釣りにされたり・・・肉体を傷つけられている様を観る部分。SMという構図もあるけど、どちらかというと自然から全く切り離されて清潔に安全に暮らしている都会で、普段刺激されない人間という動物の諸感覚を刺激してくれているのではないかと思う・・・それが心の高ぶりであったり、終幕後の心地よさに繋がる。 それってまさにスポーツと同じ構図でしょう?・・・ゴキコンはスポーツである!っていうのはこれまた言い過ぎかもしれないけど、大きく間違っている訳じゃない。

 ゴキコン=スポーツ説の誕生ですが、ぼくには見せ物、そのなかでもプロレスとある面でゴキコンが似通っているのではないかと思えます。米国のプロレスはショーアップされ、あっけらかんとした勧善懲悪物語で広い会場を沸かせます。しかも2m100キロ級の肉体が明るいリング上で激突します。対照的にゴキコンは、技はうまわけではなく、痩せこけた身体と不揃いな歌声ではありますが「心意気と情熱!」があり、独自の物語を内蔵しているはずです。そのあたりの比較検討ができるとおもしろいのでは…と思いつきを並べましたが、おしゃべりはこのへんにしましょう。


[上演記録]
ゴキブリコンビナート第19回「君のオリモノはレモンの匂い」

出演:ボボジョ貴族、オメス吉祥寺、OJC、セロトニン瘍子、Dr.エクアドル、スピロ平太、スガ死顔

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August 11, 2005

かもねぎショット「ロシアと20人の女たち」

 かもねぎショットは1989年に「夢のあるうち今のうち」で旗上げしたはずですから、もう16年。いまも活躍している多田慶子さん、高見亮子さんのほか、木内里美さんの女優3人で結成されました。旗揚げ公演は見逃しましたが、その後の「婦人ジャンプ ~ああ、この人生の並木路」「東京の道をゆくと」「婦人ジャンプ2 ~健康を祝って~」など90-91年の作品を立て続けにみて、心躍るときめきを体験しました。あとは知る人ぞ知るの大活躍です。 最新公演「ロシアと20人の女たち」が東京・下北沢のザ・スズナリで開かれました(8月3日-10日)。

 しゃれたデザインのブログサイト「Club Silencio」は「旅行でやってきたと思しき女たちがなぜかロシアの大地をさまよい歩き、『知っているつもり』のロシアと『思い込み』のロシアを演じる」と述べ、さらに次のように報告しています。

ロシアに対する断片的な知識がパッチワークのようにつなぎ合わされて次々に演じられる。罪と罰、桜の園、三人姉妹、オネーギン。そしてエカテリーナ2世、アナスタシア皇女、レーニン、テレシコワ。果てはロシアの葬儀、暖炉、馬車。うろ覚えの知識の心許なさといかがわしさがプンプンしてとても楽しい。今春に上演した「ラプンツェルたち~うろ覚えの童話集~」とほぼ同一の手法で、作者の高見亮子さんはおいしい鉱脈を掘り当てたようだ。奇怪なダンスもいい。注目していた中川安奈さんはイメージを逆手に取った演出が効いて笠久美さんとの主従で見所が多い。演出も兼ねる高見さんはやはりただ者ではない。悪だくみの才能にも溢れている。

なるほど、なるほど。
しのぶの演劇レビュー」は「ウィットに富んだ大人の女性の気軽な娯楽作品」との印象を受けたようです。

結成メンバーだった木内里美さんの消息を訪ね回ったら、いま熊本を拠点にひとり芝居「ばあちゃん」シリーズに打ち込んでいて、昨年10月には九州のテレビ番組にも取り上げられたそうです。当時のファンとして、うれしい限りです。

[上演記録]
かもねぎショット「ロシアと20の人女たち」
下北沢 ザ・スズナリ(8月3日-10日)

作・演出 ●高見亮子
出演 ● 多田慶子 / 小山萌子 / 吉村恵美子 / 笠久美(PROJECT ジョカ) / 林知恵子 / 杉山明子 / 池田素子 (ダンサー) / 公門美佳 (ダンサー)
栗栖千尋 / 高見亮子
(以上2名かもねぎショット)
中川安奈

美術 ● 加藤ちか
照明 ● 中川隆一
音響 ● 藤田赤目
衣裳 ● 高橋 佳
舞台監督 ● 北村雅則
票件管理 ● 高橋衿子
チラシの絵 ● 永山裕子
宣伝美術 ● 西山昭彦
制作 ● かもねぎショット制作部
主催 ● かもねぎショット

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August 10, 2005

南船北馬一団「どこかにいます」

 大阪を拠点に活動している南船北馬一団が、2000年夏に上演した「どこかにいます」の改訂版再演を東京・梅ヶ丘BOXで開きました(8月4日-7日)。子供のころの友達関係やほのかな好意を、大人になってから記憶の底をかき回しながら引き揚げるとどうなるか-。いまの微妙な人間関係を映しつつ、繊細かつ濃密に作り上げるサイコスリラーとも言える舞台になっていました。

 いまは廃校になっている小学校の講堂、という舞台設定です。成人式から8年後に再会を約束して集まった女性2人、男性1人の元同級生。やがて男性と結婚した同級の女性が欠席することが明らかになり、その女性が好きだったクラスメイトの男性との関係をめぐって話がもつれていく…。いやその前に、先に来ていた女性の間でも、無意識か隠微か判然としないいじめの加害と被害をめぐってエキサイトしたり、未婚既婚の差異を微妙に投影しながら、起伏と緩急の織り込まれた会話が続きます。手元に台本がなくて具体的に再現できないのが残念ですが、他人には計り知れない「ささいな」いじめ行為をいささか辟易するほど丹念にあげつらうときの運び方に作者の力量がうかがえるように思えます。

 現在は過去とのつながりで成り立っているとの強い執着が、無意識のうちに登場人物を支配しているようです。やり取りすることばはまっすぐ相手に向けられ、退路を断つほどに追い詰めるので、心理的緊張は次第に高まっていきます。舞台に立つ3人の関係が段々濃縮され、ラストのクライマックスでいくつかの謎を仕掛けたどんでん返しが用意されています。

 過去と現在を出入りする演出にも工夫が凝らされていました。会場は狭かったのですが、その狭さを逆用するように、実際の出入り口がそのまま講堂の出入り口とされ、入ったすぐ前のスペースがステージになり、座席はその両側に作られていました。昔の大事な記憶を蘇らせる場面は、白いレースのカーテンがざざっと引かれます。ライトを絞りながらカーテンの内側で交わされる会話は、確かにベールのかかった空気を醸し出していました。

 思い出探しの旅はどこかで、さまざまな距離感を失いがちです。その旅が同級会という場で実行されたら、現在の人間関係とはまた違った局面をもたらすのでしょうか。それぞれの感情の接近・遭遇という心理状態を克明に、ドラマ仕掛けで見せてもらった気がします。2001年度の第7回劇作家協会新人戯曲賞を受賞した作者の才能の片鱗が見えたと言っていいでしょうか。

 作・演出の棚瀬美幸さんは海外研修派遣制度によるドイツ留学が決まっているそうです。しばらく活動休止する最後の公演とのことでした。厳しい寒さとそびえ立つ建築物の土地に1年余り滞在した後、どのような演劇体験を持ち帰ってくるか楽しみです。
 東京公演は終わりましたが、大阪公演が8月18日から精華小劇場で予定されています。

[上演記録]
南船北馬一団「どこかにいます」
東京・梅ヶ丘BOX(8月4日-7日)

作・演出:棚瀬美幸
出演:藤岡悠芙子 谷弘恵 後藤麻友 末廣一光 他

舞台美術:柴田隆弘
照明:森正晃
音響:大西博樹
舞台監督:中村貴彦
チラシイラスト・デザイン:米澤知子
企画製作:南船北馬一団

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August 08, 2005

大橋可也&ダンサーズ「サクリファイス」

 「ハードコアダンス」を掲げる大橋可也&ダンサーズの公演をみてきました(神楽坂die pratze、8月2日)。大橋さんの名前は「かくや」と読むそうです。昨年の「あなたがここにいてほしい」公演をみた舞踏評論家の石井達朗さんの推薦で、今年の「die pratze dance festival ダンスがみたい!7」に出場することになりました。「あなたがここにいてほしい」というと、思い浮かべるのはPink Floyd のアルバム「WISH YOU WERE HERE」ですが、この公演は未見なのでコンセプトなどで関連があったかどうか分かりません。石井さんの推薦文には「男(大橋)と女(ミウミウ)の間にある永遠の溝としての身体性が、スカンクのノイズ音により幾重にも増幅された。ソリッドな身体が加速度的に追い込んでいったものは、自虐とも加虐ともつかないエロスである」とあります。期待と好奇心で足を運びました。

 開演前、客席から普段着の男女数人か舞台奥のパイプいすに腰掛け、客席に向かって横一線に並んでいます。主宰の大橋さんが「これから始めます」と言ってステージを去ると、そのうちの女性2人が踊り始めます。1人は狐(犬?)面を着け、指を鳴らしながら舞台の前の方を横歩きで往復したり、四周を素早く動いたり。ベビードールを着た女性はときに調子っぱずれで歌います。この歌は「白鳥のめがね」サイトによると「cocco の『強く儚い者たち』だそうです。
 次はバットを振り回す女性が登場します。床に大の字に寝そべったりしていると、突然教育改革を熱っぽく論じるテレビ番組の音声だけが流れてきます。バット女はその音声にほとんど関わりなく、バットを振り、動き回ります。
 3番目は…記憶がぼやけたので、「ブロググビグビ」サイトの助けを借りると、「ラムネ菓子を並べてつくったテリトリーの中で足を拘束されているキャミソールの少女と、客席や舞台後方をめがけて暴れる男の子」。最後に柄物のサマーシャツにハーフパンツ、頭に野球帽(だったでしょうか?)を乗っけたオッさん風の男性が舞台中央に登場しますが、少しの間ギクシャクと手足を動かして、そそくさと引き揚げてしまします。

 「白鳥のめがね」サイトのyanoz さんは最初のシーンに関して「二人出ていてもデュオというわけでもなく、平行して進行するその隔たっている印象が心に残る」と述べています。「ブロググビグビ」サイトの伊藤亜紗さんは「大橋可也の舞台は、二つの人物中心がディスコミュニケーションなまま並存している」「舞台上におかれた二つの要素は、並置されてディスコミュニケーションの関係にあるけれど、お互いがお互いにとっての「ノイズ」になりながら片方のみに集中することを妨げ、観客を煩わす」「煩わし合いは却って二人をそれぞれの一点へむけて閉じさせる」と指摘しています。

 今回の公演は前回の「ソリッドな身体が加速度的に追い込んでいった」とか「自虐とも加虐ともつかないエロス」というイメージとはかなり離れ、「かみ合わないけどバラバラとも言えない」「バラバラだけれども、よくどこかで見かける」という、ぼんやりした既視感や希薄な現実感が澱のように残りました。
 公演は1日だけ。主催サイドの都合だったようですが、会場は満杯の熱気でした。

[上演記録]
大橋可也&ダンサーズ「サクリファイス」
麻布die pratze (8月2日)
【出演】
ミウミウ、江夏令奈、関かおり、垣内友香里、皆木正純、ロマンス小林
【振付】
大橋可也
【音楽】
スカンク(MEXI)
【照明】
遠藤清敏
【舞台監督】
十亀脩之介

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August 06, 2005

ク・ナウカ「王女メデイア」

 ク・ナウカの「王女メデイア」 は1999年に初演されて以来、国内はもとより海外8カ国15都市で上演を重ねてきたク・ナウカの代表作です。 古代ギリシアの英雄イアソンとその妻メデイアをめぐって繰り広げられる壮大な「子殺し」の悲劇を、明治時代の日本に舞台を移し、歓楽街の座興で演じられる劇中劇として再現します。 セリフを語るのはすべて男。その言葉に操られるように動く女たち。 ク・ナウカが15年間追求してきた語りと動きを分ける‘二人一役’の手法がストーリーと密接にからみ合い、 やがて言葉の支配をくつがえすかのように女たちの反乱が始まります――。
 ク・ナウカのWebサイトに載った一文が、「王女メデイア」の簡潔な導入になっています。有力劇団の代表作だけに、力のこもったレビューをいくつも読むことができました。
 今回はCLP(クリティック・ライン・プロジェクト)の 皆川知子さんのレビューを取り上げます。

 古代ギリシャの世界が、どのように明治時代の日本に移し替えられているのだろうか。皆川さんは次のように簡潔に描写します。

文明開化の情景を描いた布が、方形の舞台を取り囲むように立てかけられている。布が取り払われると、和装の女たちが、頭を袋ですっぽり覆い、自らの顔写真を両手に抱えて並んでいる。そこへ黒い法服を着た男たちが現れ、女たちの品定めを始める。宴会の余興だろうか。男たちの語りに合わせて、女たちが人形のように無言・無表情で演じ、劇中劇が繰り広げられるのだ。メデイアは、朝鮮の民族服チマチョゴリを身につけ、その上から和柄の着物を羽織る。ここでは、ギリシャとギリシャによって支配されたメデイアの祖国コルキスの関係が、明治時代の日本と韓国の関係へと置き換えられている。 ク・ナウカ『王女メデイア』で、演出家はギリシャ時代の法治主義、ロゴス、男性原理社会を、近代化に向けて邁進する明治の日本に見いだす。

 「演出ノート」からではなく、目の前の舞台に何がありどう見えどう聞こえるかということから書き出している手法にきっぱりとした潔さを感じます。
 会場となった東京国立博物館の本館特別5室は天井がとても高く、残響が長くて声が聞き取りにくいとの指摘がかなりありました。しかしその聞き取りにくい有様自体がどう見え、どう聞こえるかと皆川さんは続けます。

(上演会場は)高い天井をもつ空間構造上、残響が長い。このため、男性のコロス(語り手)たちが同時に語ると、ことばが反響し合い、大きな音の塊となって空間を支配する。ひとつひとつのことばは聞き取りにくい。何よりことばを重んじるギリシャ悲劇の上演においてはあるまじき現象かもしれない。しかし見方を変えれば、あたりを圧するように包み込む、獏としたことばの集合体は、近代化のために弱者や不合理な存在を圧殺してきた日本の姿とも重なってくる。

 いくつかのレビューで言及されている「子殺し」の場面も、「子殺しの場面が、物語を転覆させる契機として描き出されている」とした上で、その前後の舞台上で生起した動きを具体的に伝えて次のように提示されます。

自分を裏切った夫への復讐のため、メデイアは逃げまどう我が子に向かい、刃物をふりおろそうとする。それまで阿部一徳の猛々しい声によって突き動かされてきた美加理のメデイアは、刃物をふりおろす瞬間、初めて彼女自身の、低く短い叫び声を発する。虐げられ、裏切られてきた者の恨みの声、そしてことばを奪い返さんとする逆襲の声である。

なるほど、美加理が「初めて彼女自身の、低く短い叫び声を発する」意味が、その決定的に重要な意味が、短い文章に濃縮されているように受け取れます。そこに細部を見逃さない確かな目を感じました。指摘はさらに続きます。

そしてメデイアはしずかに刃物を口にくわえなおすと、優しく子どもを引き寄せる。子どもが母親の涙を拭くしぐさをした直後、彼女は口にくわえた刃物を、子どもの腹に突き刺す。叫び声をあげた後で、刃物をくわえて自らの口を再び封じた行為は、子殺しという罪と引き換えに、ことばを奪われる立場を受け入れる女の悲しき覚悟をしめす。さらにメデイアが象徴する、近代化によって虐げられてきた国の諦念ともみえる。しかしこの後、語り手(男)と動き手(女)の関係が転倒する。動く人形、あるいは裏方の演奏者に徹していた女たちが、赤いスリップドレス一枚になり、つぎつぎと男たちに刃物を突き立てていったのである。

と言う形で、レビューをほとんど引用してしまうのはマナーを外しているかもしませんが、目に見えたこと、耳に伝わってきたこと、肌で感じたことから具体的に構成するという皆川さんの劇評作法を伝えたかったのです。あとは原文(全文)をご覧ください。彼女の分析や指摘に違和を感じる部分もあるかもしれません。ぼくも異論のあることを隠しませんが、しかし繰り返しますが、きっぱりとした潔さを感じました。


[上演記録]
ク・ナウカ王女メデイア
原作: エウリピデス
台本・演出: 宮城聰

東京国立博物館 本館特別5室
2005年7月19日-8月1日

出演:
美加理・阿部一徳・吉植荘一郎・中野真希・大高浩一・野原有未
萩原ほたか・本多麻紀・江口麻琴・片岡佐知子・諏訪智美
桜内結う・たきいみき・藤本康宏・牧野隆二・池田真紀子
大道無門優也・黒須幸絵

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August 05, 2005

MIKUNI YANAIHARA Project「3 年2 組」(続)

 ニブロールの矢内原美邦によるプロデュース公演「3年2組」に関して、「中西理の大阪日記」サイトが鋭い指摘をしています。身体と言葉の関係が取り上げられる舞台がこれから多くなりそうですが、中西さんの指摘はこの問題を考えるひとつの勘所をとらえているように思われます。

 ダンス系の舞台でダンサーが言葉を話すという設定になったとき、動いている身体と馴染まずに言葉だけ浮き上がったり、逆に言葉が明瞭でも身体が弛緩したりする(つまり時間が淀む)場面に出くわすことが少なくありません。中西さんはそのアポリアを「矢内原は『3年2組』では、会話体としての台詞を温存しながら、その台詞を速射砲のように俳優が発話できる限界に近い速さ、あるいは場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせることによって、言語テキストにまるでダンスのようなドライブ感を持たせることに成功し、それが音楽や映像とシンクロしていくことで、高揚感が持続する舞台を作りあげた」とみています。
 少し長い引用になりますが、矢内原の「振付」の特長を絡めて、この点をさらに次のように展開しています。

ここで興味深いのは矢内原の振付において特徴的なことのひとつにパフォーマー、ダンサーの動きをダンサーがその身体能力でキャッチアップできる限界ぎりぎり、あるいは限界を超えた速さで動かし、そうすることで既存のダンステクニックではコントロールできないエッジのようなものを意図的に作り出すというのがあるが、この作品ではその方法論を身体の動きだけでなくて、台詞のフレージングにも応用しようと試みていることで、そういう意味で言えばここでの台詞の発話に対する演出においてダンスの振付と同じことを目指しているように思われたことだ。
 ダンスの振付と一応、書いたけれども、これは通常「振付」と考えられているある特定の振り(ムーブメント)をダンサーの身体を通じて具現化していくというのとは逆のベクトルを持っているのが矢内原の方法の面白さで、もちろん彼女の場合にも最初の段階としてはある振りをダンサーに指示して、それを具現化する段階はあるのだけれど、普通の振付ではイメージ通りの振りを踊るために訓練によってメソッドのようなものが習得されていく*1のに対して、ここではその「振り」を加速していくことで、実際のダンサーの身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間に身体的な負荷を極限化することによって、ある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれ、それが制御不能なノイズ的な身体を生み出すわけだが、こういう迂回的な回路を通じて生まれたノイズを舞台上で示現させることに狙いがあるのじゃないかと思う。

 この「ノイズ的身体」というキーワードは、これから重要になるのではないでしょうか。中西さんはここから、チェルフィッチュ=岡田利規の方法論などに言及していきます。これ以降は、中西さんの原文をご覧ください。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:28 PM | Comments (0) | Trackback

August 04, 2005

劇団FICTION「ヌードゥルス」

 劇団FICTIONの第26回公演「ヌードゥルス」が新宿THEATER/TOPSで開かれました(7月26日-31日)。小劇場に実によく足を運んでいる「デジログからあなろぐ」と「しのぶの演劇レビュー」の両サイトがともに絶賛しています。
 まず「デジログからあなろぐ」の吉俊さん。「オモシロイ!!非常に面白い舞台でしたぁ!!・・・面白いこと以外に何も語ることが無いのが唯一悔やまれる訳だが、それもまぁ面白いから許してしまう」とまで言い切っています。さらに次のように追い打ちです。

いや~まさかの一代記、笑いに隠れてどうでもいいと思われがちな物語も、スッキリ表現しながら意外や意外、重厚な物語が描かれていたりする。
そしてまた、役者が上手いこと上手いこと・・・笑いの採り方が非常に上手い。間と台詞回し・・・笑いの本質と言っても良いだろうこの2つの要素を、全員がしっかりと会得していて、どいつもこいつも面白い・・・もう、お芝居というよりも笑いを誰が一番取れましたか対決の様相。FICTIONの凄さは、脚本より以前にこの役者陣なんだと思う・・・

 「しのぶの演劇レビュー」のしのぶさんは、「デジログからあなろぐ」のレビューを読んで出かけたようです。「開場時間そして開演の瞬間から心をわしづかみにされました」と述べた上で、次のように物語とその魅力を伝えています。

主要登場人物は、同じ日に刑務所を出所した3人の同姓同名の男たち(名字はタナカ)と、刑務所前に住む浮浪者の女(三日月)。シャバの冷たい風に耐え切れなくなって、4人は一緒に山に登って共同生活を始めます。山では小麦を植えてソバを作って生計を立てていくのですが、でも、足踏みが揃っていたのもつかの間、一人のタナカは労働の日々が肌に合わず山を降りていきます。そして数十年の月日が経ち・・・。
 息のあったボケとつっこみ、狙いが定まったキャラクター設定など、こなれた技術で笑いがいっぱい起こっていました。ひっきりなしと言っていいほど。私は笑うというよりは吹き出すって感じでしたね。

 映画「2001年宇宙の旅」のいくつかのシーンや音楽をパクリつつ、隠れモチーフもしっかりストーリーに盛り込んでいるようです。お2人が太鼓判を押すのですから、次回公演が楽しみです。待ちきれない方は、北海道・富良野公演が8月27日-28日に開かれます。演目は同じ「ヌードゥルス」です。飛んで行ってください。


[上演記録]
劇団FICTIONの第26回公演「ヌードゥルス」
新宿THEATER/TOPS(7月26日-31日)

CAST 山下澄人・山田一雄・矢田政伸・井上唯我・荻田忠利・多田明弘・大山 健・福島 恵・大西康雄

STAFF 作・演出◎山下澄人
音響◎高橋秀彰
照明◎別所ちふゆ
舞台監督◎バタヤン
イラスト及び題字◎山下澄人
デザイン◎西山昭彦
モデル◎大谷アミーゴ光弘
企画・製作◎OFFICE FICTION
プロデューサー◎白迫久美子
製作◎原田裕・井上淳

Posted by KITAJIMA takashi : 03:50 PM | Comments (0) | Trackback

August 03, 2005

チェルフィッチュ「目的地」ワークインプログレス

 岡田利規が主宰する演劇ユニット「チェルフィッチュ」のワークインプログレス「目的地」が7月24日、横浜BankART Studio NYKで開かれました。滋賀県大津市のびわ湖ホールで8月6日(土)予定の公演に先立つ試演でしょうか。岡田=チェルフィッチュはことし初めに岸田國士戯曲賞を受賞、次代を担う振付家の発掘・育成を目的とする「トヨタ コレオグラフィーアワード」にノミネートされるなど、演劇とダンスの垣根を越える活動で注目されています。以下、強力な書き込みをいくつか紹介します。

 切れ味鋭いダンス批評で知られる「dm_on_web/日記(ダンスとか)」サイトはライブの前半を次のように描写しています。

来月びわ湖ホールで初演される新作からの抜粋。30分ほど。部屋の角の部分を使って客席は二面。ソファが一つ。松村翔子が出てきて「私は今日はセリフないんですけど」というようなことを言って始まる。松村はずっと虚空を見つめるようにしてゆっくり身をよじったりどこかに手をやったりして立っていてとにかくその居方が異様。脇で岩本まりが喋り始める。例によって間接話法ないし伝聞の語りで、右手(ないし両手)が始終、横にいる松村の方へ伸びる。今にも「この人が…」という風にして松村の身体を物語の中に引きずり込みそうだ。そうすれば自ずと松村の身体は虚構の役柄を演じ始めざるを得ないだろう。さらに岩本の身体もその虚構の水準あるいはそれに対するメタレヴェルに安定した位置を得て、ともかくもフィクションの構造が成立するだろう。しかしそうはならない。岩本の手は曖昧に伸びたり引っ込められたりして、松村にタッチするか、やっぱりしないか、という不安定な「行きつ戻りつ」がずっとずっと持続する。この不安定感は実に耐え難いもので、それがなぜこうも耐え難いと感じるのかと自分で不思議に思えてくるほど持続するところに、つまり例えば現実/虚構のような分割を完了したがる気持ちを反省させるに至らしめるところに得難いスリルがあり、そんなわけでチェルフィッチュの舞台を見る時、心拍数は微かだが明らかに上昇する。

 チェルフィッチュのステージで、身体の動きが「不安定感」を醸し出すという指摘はうなずけます。「実に耐え難い」のは、その「不安定感」が微妙に揺れながらも、ぼくらの日常的な閾値を超えて持続するからではないでしょうか。「心拍数は微かだが明らかに上昇する」という記述はその意味で率直かつ正確だと思いました。

 「ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。」の曽田修司さんは、チェルフィッチュのステージでジャンルやみる側の変容について次のように書き記しています。

上演時間30分ほどのワーク・イン・プログレスにこんなにも大勢の観客(若い人が多い)が来たこと、終演後のトークで岡田氏の言葉に観客がどっと沸くほどつくる側と観る側の距離が近いこと、上演が終わったあと、「目的地」を見に来た観客の多くが、同じBankART Studio NYKで行われたアート系グループ「グラインダーマン」のパフォーマンスを観にそのまま流れる、という状況が出現したこと、などなど、この日起こったすべてのことが、私には非常に興味深い。 こういうのって、少し前までは想像もしなかったような事態(ジャンル間の区別だけでなく、作る側と見る側との関係性が変容し、両者の区別が流動的になってきている)が、いとも簡単に起こっている、ということではないだろうか。

 そう述べた後、ことし7月始めに開かれた「トヨタコレオグラフィーアワード2005」選考結果に関して「中西理の大阪日記」にふれているのはさすがだと思います。
 中西さんの考察は、この賞の選考基準は一貫しているのではないかとした上で、振付として自立的に評価できる「普遍性」と、「いまここに」を表現する「現代性」の二種類の要素を指摘しています。トヨタコレオグラフィーアワードの選考問題は取り上げようとしながら、延び延びになっていました。折を見てまとめてみたいと思います。

 さてチェルフィッチュですが、舞台に出演したこともある「わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)」サイトのqueequegさんが長文の「感想」を載せています。注釈を含めると約8000字。別のページに書かれたコメントへの返信も入れると、超長文です。「台詞と身振りの分離・独立」と「字幕」について、自分が参加したときの稽古でどのように演出されたかなどの体験を交えながら、具体的に述べています。

 びわ湖ホールでの公演は8月6日の1日限り。また書き込みを紹介したいと思っています。(8月16日に掲載しました)

追記(8月16日)
 ワークインプログレスについて、劇作家の宮沢章夫さんが自分のブログ「富士日記2」(7月24日付け)で言及しています。チェルフィッチュは初体験だと断りながら、「超リアル」な日本語は、「きわめて計算された不自然な『せりふ』」で、「その言葉が持つ『特別な強度』を借りつつ、うまく計算されて書かれている」「『リアル』をもうひとひねりしたからだの動きも相俟って、きわめて精緻に造形された人物が出現しており、なるほどと思った」などと強い印象を受けたようです。

[上演記録]
BankART Cafe Live Series vol.1
チェルフィッチュ「目的地」ワークインプログレス
7月24日(日)
 作・演出:岡田利規
 出演:岩本えり、下西啓正、松村翔子、山縣太一

[参考]
・びわ湖ホール 夏のフェスティバル2005
(表示画面を2ページ分下方に移動すると表示)

・トヨタ コレオグラフィーアワード2005 (世田谷パブリックシアタートヨタ自動車

・ 岡田利規インタビュー 「自分にフィットした方法で いま を記録したい
(聞き手: 柳澤 望)

Posted by KITAJIMA takashi : 02:16 PM | Comments (0)

August 01, 2005

MIKUNI YANAIHARA Project「3 年2 組」

 会場となった吉祥寺シアターのWebサイトによると、「ダンスや演劇の枠組みを超えた舞台作品のこけら落とし公演」。パフォーミング・アートカンパニー『ニブロール』の主宰であり、振付家として共同制作してきた矢内原美邦が、個人プロジェクトとして「MIKUNI YANAIHARA Project」を始め、ダンスや演劇という枠組みを超えて一人の演出家としての色をより濃く反映させた新たな舞台作品、とのことでした。
 「しのぶの演劇レビュー」は「セリフが有るダンスだし、ダンスが有る演劇でした。『ダンスや演劇の枠組みを超えた舞台作品』というのに納得です。ニブロールが初見だということを別にしても、私が今までに観たことのない種類の作品だったように思います」と述べ、「演劇好きの私には少々とっつきにくいこともあったのですが、ラストには感動していました。あぁ~・・・なんか、いい意味でプチ・ショック。凄い人がいるもんですね」と矢内原パフォーマンス初体験の感想を語っています。

 「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんも、ステージの「圧縮」される言葉とエネルギーに圧倒されたようです。

90分の作品でしたが、肉体と台詞の濃密さといったら3時間分ぐらいのお芝居の内容を90分に圧縮されているのではないかという感じです。あの台詞量を覚えているというのが凄い、意味の繋がりが希薄で会話の体をとらないそれ・・・倍速で吐き出される言葉・・・演者の力量に敬意、そして数多くいる役者が如何にその場所に甘えているかということが頭をよぎる。 動かし続けられる肉体による身体表現、そして捲くし立てられるように語られる言葉・・・この怒涛の表現に身を委ねて、その空気に漂うだけで、不思議と感動できてしまうのです。

 ダンスをみてきた人にとって、演劇サイドの感じ方とはややニュアンスが違っているようです。ニブロールの活動もフォローしてきたと思われる「Sato Site on the Web Side」はやや冷めているようです。

猛烈なスピードとパワーで押しまくるダンサー達を見ていながら、このスピードとパワーに体が巻き込まれせき立てられ、いても立ってもいられなくなって体中で泣いてしまう、などということは、なかった。冷静に見ていられるのだ。それは多分、一定のパワー、一定のスピードにあらゆるダンサーがせき立てられていたことによるのではないか、と考え、だとすれば、あのとき見ていた舞台はまるでビデオの早送りのようだったと、今にして思う。(略)ここにあるマッシヴなエネルギーに感動してしまう自分を否定できない反面、その感動の割合の小さいことがむしろ気になった…

【追記】2005.08.056
 ニブロールの矢内原美邦によるプロデュース公演「3年2組」に関して、「中西理の大阪日記」サイトが鋭い指摘をしています。身体と言葉の関係が取り上げられる舞台がこれから多くなりそうですが、中西さんの指摘はこの問題を考えるひとつの勘所をとらえているように思われます。>>

[上演記録]
MIKUNI YANAIHARA Project Part1「3 年2 組
吉祥寺シアター(7月15日-18日)

作・演出・振付 : 矢内原美邦
映像 : 高橋啓祐
音楽 : スカンク(MEXI)
衣装 : 広野裕子
出演 : 足立智充、稲毛礼子、上村聡、鈴木将一郎、関寛之、渕野修平、三坂知絵子、矢沢誠、山本圭祐

Posted by KITAJIMA takashi : 07:00 PM | Comments (0) | Trackback
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