はじめまして。このたび執筆陣に加えていただきました、今井克佳と申します。若々しい才能に混じって稚拙なレビューをご紹介するのに忸怩たる思いもありますが、せっかくのお誘いを光栄に思い、参加させていただきました。私が足を運んでいる演劇は、いわゆる「小劇場」とは若干ずれており、公共劇場の演目などが多くなると思いますが、もちろん「小劇場」にも時には足を運んでおります。基本的にレビュー掲載は自前のブログ「Somethig So Right 東京舞台巡礼記」の記事へのリンクとしたいと思います。私の作法として、リードの後に観劇日と上演時間を大まかに記し、そこから後はいわゆる「ネタバレ」の記述となっております。その点、ご了解のうえ、ご覧いただければと思います。
まずは、世田谷パブリックシアター「敦 ー山月記・名人伝ー」 について書きましたので、お読みいただければ幸いです。
こちらにアップするのが遅くなってしまいました。
今回初めて見たポツドールの芝居、三条会とは対照的に
「平田オリザの『S高原から』を見てから見たかった」
と思わせる舞台でした。
評判通りのセンスを感じましたが、あまりに評判どおり過ぎてありがちな評になってしまったのが個人的には悔やまれます。見た人には伝わるだろうけど、それだけじゃなんだか。
「没後35年、世界につながる三島」-。こんなキャッチコピーでtpt が三島由紀夫の「道成寺」を取り上げました。Webサイトには「ヨーロッパの都市で挑発的な演劇活動を続けている気鋭のドイツ人演出家が、三島由紀夫没後35年の2005年東京で“末世の意識をひそめた”この戯曲の変幻自在性を探る」と書かれています。その「気鋭のドイツ人」はトーマス・オリヴァー・ニ-ハウス。2003年、ボート・シュトラウスの「時間ト部屋」でtpt に初登場した演出家です。
「Club Silencio」サイトのno_hay_bandaさんはまず、「前面を石張り建築風にこしらえた舞台を黒い床が映し出す美術(松岡泉)がまず上出来」と褒めています。この芝居に触れた人はほとんど、舞台美術や装置を評価していました。no_hay_bandaさんはまた「冒頭そこに登場してくる人物の衣装(原まさみ)も意表を突いてこれまた良い。骨董店主人(塩野谷正幸)の風体、口上もよろしく、期待を持たせる」としながら、箪笥の競りで、法外な安値を付ける娘清子(中嶋朋子)が現れると、その期待がしぼむと言います。なぜでしょうか。「理と情の釣り合いをとらないといけない役のはずなのに情が前に出すぎている。そしてそれを破裂を伴うような声で演じるので場違いな感情過多と映る。もともと説明口調のところにもってきてそれだからこちらの気持ちは舞台に入っていけない」というのです。
「しのぶの演劇レビュー」も引っかかったとみえ、「Club Silencioで書かれているとおり、私も清子役の中嶋朋子さんの演技がどうも受け付けづらかったです。お話の中、そして想像(夢)の中に入って行きたいのに、主役の彼女が現実世界の個人的感覚に浸っている様子で、私もベニサン・ピットの客席に座っている自分のままで居るしかありませんでした。でも、言葉がはっきりと伝わってきたので、お話の意味は非常にわかりやすかったです」と述べています。とはいえ、この競売のシーンで次のような指摘に出会い、うなってしまいました。
清子に関して、さらに別の見方を紹介しましょう。「現代演劇ノート~〈観ること〉に向けて」の松本和也さんは「tptの「道成寺」は三島由紀夫の台詞の言葉との距離・バランスを巧みに取りながら、情念という言葉とはおよそかけ離れたモードの中で清子=中島朋子を迎えることになるだろう。つまり、ニーハウスの演出は、このように台詞や演技をひとたび解体し、あたう限り重みを削いだ記号として(再)配置することで組み立てられている、「道成寺」のポスト・モダン的地平を形作っている」とした上で、次のように展開します。
もう少しネットを見歩いたら、「日々つれづれ」サイトの次のような個所に出会いました。
中島朋子の演技を軸に紹介してきました。当然のことながら、今回の舞台は彼女が自分勝手に演技しているわけではありません。ニーハウスの演出が演技の様式を決め、それが舞台に現れているように思えます。その意味で「「現代演劇ノート…」が、演出との関係で彼女の演技をみているのは妥当な手続きだと思います。
逆に言うと、彼女の演技に疑問符が付く場合は、遡って「ニーハウスの演出」にも言及してよいのではないかと思われます。
それにしても「破裂を伴うような声で演じる」スタイルは最近よくみかけますが、その異質な、ある種の違和感を伴う「発声」の意味と響きを、ニーハウスはどこまで了解しているのだろうかという疑問は残ります。エーと、こういう風に書いてしまうと、これはまたまた、半ば役者の問題でもあるということになってしまうのですが…。難しいですね。
[上演記録]
三島由紀夫:作 トーマス・オリヴァー・ニーハウス:演出「道成寺 一幕」
ベニサンピット(8月20日-9月4日)
<出演>
中嶋朋子 塩野谷正幸 千葉哲也 大浦みずき 池下重大 植野葉子 廣畑達也
<スタッフ>
演出:トーマス・オリバー・ニーハウス
美術:松岡泉
照明:笠原俊幸
音響:長野朋美
衣裳:原まさみ
ヘア&メイク:鎌田直樹
舞台監督:増田裕幸・久保勲生
協力/ドイツ文化センター
『赤い月』にこだわっているわけではない。観劇したのが初日であったのと、座席が舞台から離れていたのが、しばらく気になっていた。主演の平淑恵の演技を評価しなかった、というのも頭から離れず、もう一度、観劇することにした。自らの観劇姿勢を問う、という試みでもある。
今回は前から3列目の座席だった。俳優の演技が間近で観られて、全体的に水準の高さを実感させられた。ロシア人、中国人、朝鮮人と演じ分けたのにはリアルさが充分にあって、迫真の演技を想わせた。
圧巻だったのは、関東軍参謀の大杉寛治を演じた大滝寛と、森田酒造の従業員・池田を演じた塾一久(じゅく・いっきゅう)である。大滝はアクセントの効いた声調と、鷹揚(おうよう)に構えた立ち居振る舞いによって、品格が生まれ、魅力的な人物として造形されていた。一方、塾は番頭格を想わせる風格で、円熟味のある演技が観ていて心地よかった。ともに、役に乗り移ったかのようであったが、朗々とした発声が身体に響くようで、圧倒され、魅了された。
さて、ここからが書きあぐねた。主人公の波子を演じた平をどう評価するか、である。
率直に云って、初見と同様、演技にそつはないけれども、その迫力に欠けた。なぜ、迫力に欠けたのか。その点を突き詰めて考えていくと、小説との違いに思い当たった。4年前に小説『赤い月』を読んだが、その中で描かれている波子と、今回演じられた波子では、大きな違いが感じられた。思いもよらない人物、というのが小説の波子に対する記憶だった。
自らの観劇姿勢を問う、という試みはまだ終わらない。
【観劇日:1日、座席:D列2番】
(山関英人 記者)
わたしの『ニセS高原から』観劇一発目は蜻蛉玉。
本家の「S高原から」をみていない私にとっては、この作品をベースとして
他の作品をみていくことになるわけだが、実はフルで男女キャストを
書き換えていたことに終演まで気付かなかった。
違和感を感じないままに、恋人たちの会話のやりとりに見入っていた、
これは演出家の方にとっては 「してやったり!」という感じだろうか。
蜻蛉玉の演出の島林さんは、わたしとそんなに歳のかわらない女性の方だ。
瞬時に「これは!」と目が冴えるような演出ではないけれど、
じわじわと歪みが空気ににじんで広がるような舞台に翻弄された1時間50分。
以下「女子大生カンゲキノススメ」をご覧ください。