特別企画「振り返る 私の2004」

■第2回  河内山シモオヌ (近・現代演劇)

筆者の申し出により、全文を削除します。以下、次の文章が送られてきましたので掲載します。(2005.9.15)

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-「私」自体に価値があるかどうかはわからない。ただ、「私」を離れたところに価値はない、あってもそれは「私」にとって無意味だ-

 これは由紀草一が『団塊の世代とは何だったのか』(洋泉社)で仮定した「戦後的な自我」であり「現在の始まりである私意識」だが、「ブログを書く『私』」を広く定義する言葉として、これ以上ふさわしい言葉はないように思える。
  ネット上にある膨大な数のブログを書いている、これまた膨大な数の「私」(河内山の「私」も含めて)は、引いて眺めれば無数の点に見えるだろう。今回の企画では、「私」は点であるという鳥瞰図を書いてみたくなった。ある程度自由な大枠「振り返る私の2004」の中で総括も問題提起もせず、ただひたすら瑣末な関心事を書くことに徹すれば、大きな全体の中に極小の点々、この構図を感覚的に伝えられるのではないか。それは制限ある時間の中でできる最良の、「『私』を回顧する実直な文章」だと思われた。

 こんな試みをしないで2004年に限らず考えていること、例えば観たものについて書くことがなぜ必要だと思うのか、あるいは演劇に限らず舞台芸術は何をやっていると思うか、などのテーマで正面から書く方法も考えなかった訳ではない。でも「回顧文」なのにそれは焦点がぼやけている、と当時は却下した。

 書いている内に掲載が年明けになったので、年始のおまつりの雰囲気が少しでも出せたらいいなと考えた。とはいえ、時すでに松の内を過ぎている。そこで執筆にあたりイメージしたのは「かつてそれが年始の集まりであった痕跡を残す、しかしもはやいつもどおりのゆるんだ宴会と化した卓上にある食べ物。あらかた食べたおせち、ありあわせでつくった肴、みかんなど」だ。
  つまり書いた時点で「あとは雑煮を待つのみ」、片付けが始まる寸前の文だった。そして現在、2005年も下半期を過ぎ、拙稿の役目は終わって久しい。 
  削除を決めるまでにはいろいろと迷いもあったが、最終的には「何をどんな目的で書いたか」という書き手としての自覚に基づいて判断をした。( 2005.9.3)