自分にフィットした方法で 'いま' を記録したい  (Part 2)

インタビューランド #1  チェルフィッチュ 岡田利規  聞き手: 柳澤 望

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古典を上演する…

柳澤 「ユビュ王」を上演したときは注 15、元の戯曲を踏まえたオリジナル台本を書いて上演してましたよね。その当時岡田さんは「自分は演出家ではない」とおっしゃっていて「他の劇作家が書いた作品を上演する意欲はない」とうかがいました。いまの話題に引きつけて言うと、動きを立ち上げてくる役者との共同作業は、あらかじめノイズを発生させる言葉のあり方が前提となっていて、これらがセットになって岡田さんの舞台作りがあるから、あまりノイズを発生させない戯曲を舞台に載せるつもりはない。そういうことになりますか。
岡田 いまはその考えは変わっています。まずぼくが自分で書く言葉みたいにノイジーでないと身体の動きが振り付けられないというのは、いまは考えが変わりました。もっとすっきりした言葉でも、イメージのレベルがノイジーであれば、身体に動きは付けられるという考えにシフトしてます。既存の戯曲を上演するというアイデアも、そういう経緯があって出てきたものなんですけどね。
柳澤 近い将来、他の作品を演出、上演するかもしれない、やれるのではないかという手応えまでいかなくとも、感触があるということですね。
岡田 手応えや自信はないけれども、試してみたいですね。どうせやるなら有名な古典劇を上演しようかなとか思ってます。ただ、別の問題として、そういう古典作品を上演する今日的な意味があるのか、ということがありますよね。ぼく自身の方法論の検証に役立つなんてのは、それこそ自分のためだけの美学的な問題で、上演する意味というか、やってどうするのというレベルの問題を抜きにした話なんですよ。その辺をどう考えるべきか、判断がまだ下せてないです。意味が見出せれば上演するだろうし、ない場合は、それでも方法論の検証もそれはそれで重要なことなので、ワークショップででもやることにはなると思いますけど。
柳澤 公開試演会の形にすれば有意義ではないでしょうか。
岡田 そうですね。そのときは舞台装置を普通に組んで、すごくオーソドックスな、たとえば新劇のような見立てで、言葉と身体の関係についての考え方だけを適用していってチェーホフを作ったりとか、してみたいですね。ただまあそれは、やっぱり演劇の中だけの問題のような気もして、どうしても考えあぐねちゃいますけど。

むしろ「古くさくなるもの」を

柳澤 古典を上演する意義があるかどうかというのは、内野儀さんの議論につながりますね。「ポスト*労苦の終わり」公演で配布されたフライヤーの裏側に『舞台芸術』誌の 6 号に載った内野さんの文章注 16の抜粋が掲載されていました。
 「岡田は開示される『語り=物語』はないと開き直って、生身の身体を暴走させることで、古典への『愛』と裏腹にある観客の『消費』の欲望に応えるのではなく、身体自体の暴力的あらわれを問題化するのだ」
  あの引用はちょっと不親切で、内野さんの趣旨はもっともとの文章を読まないと分かりにくいのですが……内野さんがおっしゃっているのは、身体の暴力的なあらわれによってこそ語るべき物語を、岡田さんの舞台は提示している、ということですよね。
岡田 確かに、あそこに批判的な意味合いで書いてあった「古典への『愛』」という言葉には、影響を受けた考え方になってますよね、僕。
柳澤 古典の上演は、ただ消費されるだけになってしまっている。それは審美的な満足を与えるだけの、演劇というジャンルの中に閉じたものでしかないという指摘ですよね。
岡田 身体自体で語られるべきものはないのかというと、あるだろうというロジックの指摘ですね。ぼくもその辺はそうだなあと思ったんです。審美的な興味だけで上演するのはどうかなあと。でもそれとは別に、とりあえずやってみることで審美的な何かを超えるものを見つけられるかもしれないしという気もするし。
柳澤 超えるというのは。
岡田 古典戯曲を上演することで、ぼくの言葉と身体の方法論を使って演出したということ以上の何かが見えてくるかもしれないということです。現時点では何も分からないですけど。
柳澤 いまどきの言葉の冗長さ、でたらめに見える言葉にたたみ込まれている秩序から立ち上がってくる身体性、身体の動きを介して初めて、いま語られるべき物語がある。「三月の5日間」でイラク戦争と、若者の卑小な、ある種惨めったらしい人生の一場面を対比させてみたり。「労苦の終わり」でいえば、せっぱ詰まった人生の岐路で、自分の人生をどちらにハンドリングしたらいいのか、そういうところでじたばたしてみる。ささいと言えばささいな話を、あえて物語として語ろうとしている。そしてそれを舞台に上げることは、チェーホフをいま上演するよりも意味がある。そういう判断が岡田さんのどこかにあるんですか。
岡田 以前はぼくも、普遍的でありたいという欲求があったんですよ。自分が普遍的なものを作る人間になりたい。俗に言うと、たとえばチェーホフのようになりたいということですけど。さっき話した、現代的なものへの嫌悪感というのも、要は普遍的なものへの憧れみたいのとリンクしたものだったんですよね。でも、普遍性ってのは事後的に付加されるものじゃないですか。当たり前なんですけど(笑い)。でもその当たり前のことに、あるとき気付いたんですよね。だからその性根を、あるときひっくり返したわけです。で、普遍性なんかどうでもよくなって、現代にべったりひっついたようなもの作るようになったって感じですね。
柳澤 どこまでも「いま」に密着したいとお考えですか。
岡田 むしろすぐに古くさくなるようなものを作るぐらいの方がいいと思っているんだけれど。>>


注 15) 「ユビュ王」 : 2003年9月、フランスのアルフレッド・ジャリ作「ユビュ王」を7劇団がそれぞれ法政大学学生会館で上演する特別企画「UBU7」にチェルフィッチュも参加した。ほかにジンジャントロプスボイセイ、Ort-d.d&三条会、風琴工房などが参加。
注 16) 内野儀「パレスチナから遠く離れて----『開示すべき語り=物語(ナラティヴ)』はあるのか?」(「舞台芸術」 6号


Part 1: / 台本の書き方 / 演劇スタイルの転換 / 平田演劇の影響 / 自分にフィットする方法 / 上演台本から戯曲集へ / 拒絶反応について / 偶然と狙いと / 「労苦の終わり」と「ポスト*労苦の終わり」 / 歌集『渡辺のわたし』 (2005年5月15日掲載)
Part 2: / STスポット、ダンス、身体性 / 話す身体と聞く身体 / 演劇論の「インプット」と「アウトプット」 / 台本が必要な理由 / 古典戯曲を上演する… / むしろ「古くさくなるもの」を / 想像力の欠如を「記録」したい /
インタビューを終えて-岡田利規 柳澤望 (5月25日掲載)