演劇にはまだやれることがいっぱいある

インタビューランド #2  三条会・関 美能留  聞き手: 松本和也

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舞台作品の「歴史」

三条会 関美能留さん 松本 武田泰淳についてもう一つうかがいたいと思います。関さんも(プログラムの)「演出ノート」に書いていたかと思うんですが、オチとしてはどうしても「人間」という話に行ってしまう。もう一方では「戦中」「天皇」ということもある。このあたりは稽古で前景化するわけですか。
 いやあ、それはしないですよ。言っていいのかどうか分かりませんが、全然実感ないですから。もちろん勉強はしますけど、それをぼくが俳優たちに延々と話して、俳優たちが分かったふりをして演技する方がよっぽどいやですよね。それはぼくの作業です。だれかに聞かれたとき、ぼくが答えられるかどうかということですから。もちろん関わっていることですから、俳優たちがまったくそれを無視していたら、どうしようもないです。無視はしないでくれ、ということだけは言ってますが、とりたててどうこうという説明はしてません。
松本 利賀のコンクールで「ひかりごけ」を上演した時の「演出ノート」には、「歴史」との向き合い方が書かれていました。ギリシャの悲劇喜劇なども含めて、原作が持っていた当時の歴史と、発表当時、上演当時、それから現在からみた隔たりなど、舞台作品に関わってさまざまな「歴史」があると思います。「歴史」を孕み込んだ作品を舞台化していくとき、前景化することはないかもしれないけれども、そこは無視できない要素にも思えます。稽古や上演に当たって、どんなふうにお考えですか。
 うーん、うーん。
松本 三条会がやっているのが「現代」演劇で、演目が「近代」だったり「古典」だったりすると、すでにそこに歴史的な「ズレ」があるわけですよね。
 何か、いい話があったんだけど、あれえ、忘れちゃったなあ(笑)。それについては、こう答えようと思っていたんだけどなあ(笑)。ええ、もちろん無視はしてませんよ。
松本 観客としてみると、例えばいわゆる古典や文学作品を取り上げておいて、いかにも「歴史」に鈍感というか、齟齬感のはなはだしい舞台がある。三島作品についてそんなことを思うことがままあるんですが、三条会にはそういう齟齬感がない、あるいはないように作っているのはどういうことなのか、と思ったんですが。
 「いい話」じゃなくて、いま適当に話すんだけど、その辺はぼく自身勉強していても、それをみせるわけじゃない。一応30年前40年前のことを、ぼくは知らないということが前提です。知らないので、書物を読んだり先輩たちに聞いたりはしますけど、それを舞台で出すとなったら、圧倒的な齟齬が生まれてしまうわけです。
松本 稽古でジャッジするための一つの参考としては確実にあるということですか。
 それはありますね。稽古段階での判定基準ですね。それだとあまりにばかにしてるとか、それだとあまりに無視してるとか。俳優が歴史を分かろうとしてるからこそいろんなアイデアが生まれる。俳優たちが行き詰まると、これはこういうことなんだと言ったり、そういうことはありますね。そのままやられたら困ります。

ト書きは「挑戦」

松本 では、2004年にこまばアゴラで上演された「班女・卒塔婆小町」についてうかがっていきたいのですが、これは再構成がはなはだしいわけでなくて、一応原作の流れ通りだし、せりふもそのままになっています。しかし、ト書きに関しては忠実に守られることがほとんどないですね。
 ト書き通りに舞台上に現出させることはしていません。読んでないわけではないですよ。
松本 例えば原作戯曲のことばとして、せりふもト書きも含めて三島由紀夫がつくった作品世界だと捉える立場もあると思うんです。関さんが、せりふ通りでありながら、ト書き通りではないのはどうしてですか。
 だって、ト書き通りやって、せりふ通りやったら、つまんないじゃない(笑)。それはト書き通りにせりふを読んだら楽しいですよ。でも、多分(舞台化したら)駄目ですよ。三島さんの戯曲に限って言えば、読めばいいだけなんです。ト書きが書いてあるところでは「これは挑戦なんだな」と勝手に勘違いして取り組んでいます。三島さんが書いたト書きがあるからその通りにしよう、というほど、演出家は不自由ではないと思いますよ。「読むときはト書きがこう書いてある。実際上演するときはどうするの、関美能留?」と問われていると思います。そこで勝負しているつもりです。
松本 なるほど、確かに三条会の舞台を見ると「班女・卒塔婆小町」で笑えてしまう。のびやかというか、「ああ、こういう作品だったのか」と気づかされることが多々あったのを思い出しました。では少し、身体のことも視野に入れていきたいと思います。三島の戯曲のことばの特殊性、これは文学座での上演が前提だったこともあるでしょうが「書かれた言葉・読むための言葉」という面が確かにある。ただ、そうでありながら逆に、「語られ、聞く言葉」あるいは身体を要求しているという捉え方もある。三条会の舞台をみると、身体を要求する言葉として三島を読んでいる印象がありますが、関さんはどう考えてますか。
 うーん、うーむ。
松本 ええと、極論としては、三島戯曲を舞台向きなものとして捉えてらっしゃるのかどうか……。
 どう答えたらいいのかなあ。最初に言えることは、三島作品に登場するような人物に、ぼくは会ったことがない。そんな人はいない。でも、それを登場させたい。舞台上でどういう人物になっているか、向き合いたい。そういう思いはありますよね。
松本 いわゆる日常とは違った種類の人物が出てきて、結果として戯曲なり芸術なりになっている。それをもう一度、三条会が作り出すということですね。それから、旗揚げが三島作品でしたが、その頃といまでは三島への興味は変わりましたか。
 昔は単純に、だれも上演していないから取り上げるとか、勉強もしないといけないという理由でやっていましたが、最近はもう少し準備したいという思いがあります。慎重になりますね。「近代能楽集」でしたら、できるような気もしますが、「わが友ヒットラー」のような戯曲を上演しようとなると、昔ならやっちゃえとなったかもしれませんが、いまはそんな簡単にできないなあと思います。取り上げるには集団の地力も上げないといけないし、演出の力もつけないといけない。ちょっと慎重になっているところです。
松本 三島作品の場合、せりふの並びを変えてはいけないんでしたっけ?
 現実的には、変えてはいけないですね。
松本 「近代能楽集」の稽古も、先ほど「ひかりごけ」についてうかがったように、まず文庫本をもとに配役を決めて、そこから作っていくということですか。
 そうですね。
松本 稽古も2段階あるということも変わらないですね。
 変わらないです。「班女」「卒塔婆小町」は静岡で上演して、千葉、鳥取、そして東京で上演してますので、その時々変わってきている部分はありますね。
松本 三条会は、2つの作品を同時上演というか連続上演することがままありますね。「幸福の王子・サロメ」もそうでしたね。三条会の場合は、一応2作品ではあっても、全体で一つの作品になっている印象が強い。原作のストーリー・ラインとは別に、俳優が2作品を通じて身体で生きてしまう物語を、一観客としてはみているのかな、と思っています。そこはどう作っていくんですか。
 ぼくはどちらかというと、物語よりも、こういう戯曲を書いている作家ってどういう人なんだろうという方に関心がある。勉強して得られる作家性ではなくて、実際は違うんじゃない、この人は違ったんじゃない、というイメージが提出できればいいと思う。作品を2つ並べるのは、例えば三島由紀夫とオスカー・ワイルドに興味があったということなんです。
松本 なるほど、「班女」と「卒塔婆小町」は三島、「幸福の王子」と「サロメ」はワイルド。同じ作家のものとしては、特にワイルドの場合ずいぶん作風が違いますが、作家性の幅という理解ですか。
 そうですね。
松本 原作の物語があって、俳優が生きる物語があって、関さんの言い方を借りれば、最後に作品の上演を通して作家性に出会う、あるいは出会い直すということになるんですね。 >>

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インタビューを終えて 関美能留 松本和也 / [参考資料] (7月25日掲載)